「神の王国に救われるのはどのような人ですか?」
いつもこう応えます。
「主からどれほど離れていようとも、
その歩みがどれほどゆっくりであったとしても、
主のもとに向かって歩んでいる人を、
主が切り捨てると考えることができますか?」
「あなたがたを縛っている鎖を振り払い」2ニーファイ1:23
犬が鎖につながれています。
それは少々邪魔ですが、
届く範囲であれば問題なく行動できます。
重さにも慣れました。
愛する主人の姿が見つけ、駆け寄ろうとしました。
鎖は音を立てて張り詰めました。
それから先に行くことはできません。
罪の鎖と呼ばれるものがあります。
心に重くは感じられても、
それが普通と思っていました。
福音と出会い、受け入れようとしました。
主に近づこうとしたとき、鎖は張り詰めました。
それから先に行くことができません。
罪によって縛られていることに気づきました。
「地は罪悪を犯す人のために呪われ…義人のためには…祝福される」2ニーファイ1:7
ある人が麦の種を蒔きました。
季節が来て豊かに実りました。
彼は貧しい人にも、飢えている人にも、
誰にも分け与えることなく、
その収穫を倉に納めました。
また、ある人が種を蒔きました。
季節が来て豊かに実りました。
貧しい人、飢えている人、
必要としている人々を呼び集め、
ともに収穫し、その恵みを分かち合いました。
呪いとは、祝福とは何なのでしょう。
永遠を見渡す目で見る必要がありそうです。
「色々な苦難に遭ったにもかかわらず、約束の地を手に入れた」2ニーファイ1:5
昨年の秋、ギックリ腰になりました。
それ以来身体が疲れやすくなってしまいました。
職場にお願いして、日曜と水曜を休みに、
平日も忙しくないときは三時で
終わるようにしてもらいました。
これが老化現象というやつなのでしょうね w
「福音を分かち合うために何ができるか,霊感を求めて祈ることができます」オークス管長
この言葉を読んで祈ってみました。
総大会のお話から心に感じた部分を
FBに投稿することにしました。
ギックリ腰のおかげで空いた時間が与えられました。
暇さえあれば、過去の総大会のお話を読んでいます。
深く考える時間があります。
多くの言葉と物語が心に喜びを与えてくれます。
さて、これは祝福でしょうか?
「イスラエルがたとえ集められなくても…神はわたしの力となる」1ニーファイ21:5
アーニャは14歳のとき、宣教師から福音を学びました。
そんなある日、学校の授業で教師が
教会とモルモン書について誤ったことを話しました。
彼女はまだ求道者にすぎませんでした。
しかし教師が間違っているのは分かりました。
彼女は立ち上がり、「それは誤りであり、
モルモン書が真実であると知っている」と言いました。
そして、「自分で真理を知りたいと思う人は
モルモン書を読んでみてほしい」と言ったのです。
アーニャは家に帰り、宣教師に
バプテスマを受ける準備ができたと伝えました。
(証人になる ナドール姉妹 2000年4月より)
福音を語るとき、その教えは
話す人の心に御霊の証とともに染み込みます。
聞く人よりも語る人のほうが幸いを受けるようです。
日曜学校の教師がこう言うのを
聞いたことはありませんか。
「このクラスでもっとも祝福を受けたのは、
きっとわたしです」
ノアは百年の間、人々に福音を伝えたそうです。
彼の家族以外、誰も耳を傾けようとしませんでした。
そこに祝福はあったのでしょうか。
「イスラエルがたとえ集められなくても…神はわたしの力となる」
…だそうです。
「悪人には平安がない」1ニーファイ20:22
心に偽りのあるとき、平安はあるでしょうか。
苛立ちや怒りのあるとき、
不平不満のあるとき、
誰かを赦せないときはどうでしょう。
悪人だなんて言うつもりはありません。
そんなことを言われたら、わたしは悪人です。
どうすれば平安を取り戻せるでしょうか。
知っている中で最もよい方法は
祈ることだと思います。
平安のないとき、祈りたくなります。
十四歳だったジョセフも
そうだったのではないでしょうか。