末日聖徒の日曜学校

今年はモルモン書から学んでいます。

「メシヤを信じる者は救われる」2ニーファイ2:9

「神の王国に救われるのはどのような人ですか?」

いつもこう応えます。
「主からどれほど離れていようとも、
 その歩みがどれほどゆっくりであったとしても、
 主のもとに向かって歩んでいる人を、
 主が切り捨てると考えることができますか?」

「救いは無料である」2ニーファイ2:4

誰でも望むなら
バプテスマを受けることができます。
バプテスマを受けるなら
罪の赦しが与えられます。
衣は清められ、
罪のない状態になれるのです。
何と簡単で、何と素晴らしい祝福だと
思いませんか。

罪を赦されたなら、
その赦しを保つ責任が与えられます。
その責任を果たさないとしたら、
与えられた赦しはどうなるのでしょうか。

赦されることよりも、
赦しを保つことの方がはるかに重要であり、
はるかに大変であるような気がします。

「日の栄えの…律法に従えない者は、日の栄えの栄光に耐えられない」教義と聖約8822

「あなたがたを縛っている鎖を振り払い」2ニーファイ1:23

犬が鎖につながれています。
それは少々邪魔ですが、
届く範囲であれば問題なく行動できます。
重さにも慣れました。
愛する主人の姿が見つけ、駆け寄ろうとしました。
鎖は音を立てて張り詰めました。
それから先に行くことはできません。

罪の鎖と呼ばれるものがあります。
心に重くは感じられても、
それが普通と思っていました。
福音と出会い、受け入れようとしました。
主に近づこうとしたとき、鎖は張り詰めました。
それから先に行くことができません。
罪によって縛られていることに気づきました。

「地は罪悪を犯す人のために呪われ…義人のためには…祝福される」2ニーファイ1:7

ある人が麦の種を蒔きました。
季節が来て豊かに実りました。
彼は貧しい人にも、飢えている人にも、
誰にも分け与えることなく、
その収穫を倉に納めました。

また、ある人が種を蒔きました。
季節が来て豊かに実りました。
貧しい人、飢えている人、
必要としている人々を呼び集め、
ともに収穫し、その恵みを分かち合いました。

呪いとは、祝福とは何なのでしょう。
永遠を見渡す目で見る必要がありそうです。

「色々な苦難に遭ったにもかかわらず、約束の地を手に入れた」2ニーファイ1:5

昨年の秋、ギックリ腰になりました。
それ以来身体が疲れやすくなってしまいました。
職場にお願いして、日曜と水曜を休みに、
平日も忙しくないときは三時で
終わるようにしてもらいました。
これが老化現象というやつなのでしょうね w

「福音を分かち合うために何ができるか,霊感を求めて祈ることができます」オークス管長
この言葉を読んで祈ってみました。
総大会のお話から心に感じた部分を
FBに投稿することにしました。

ギックリ腰のおかげで空いた時間が与えられました。
暇さえあれば、過去の総大会のお話を読んでいます。
深く考える時間があります。
多くの言葉と物語が心に喜びを与えてくれます。

さて、これは祝福でしょうか?

 

「イスラエルがたとえ集められなくても…神はわたしの力となる」1ニーファイ21:5

アーニャは14歳のとき、宣教師から福音を学びました。
そんなある日、学校の授業で教師が
教会とモルモン書について誤ったことを話しました。
彼女はまだ求道者にすぎませんでした。
しかし教師が間違っているのは分かりました。
彼女は立ち上がり、「それは誤りであり、
モルモン書が真実であると知っている」と言いました。
そして、「自分で真理を知りたいと思う人は
モルモン書を読んでみてほしい」と言ったのです。
アーニャは家に帰り、宣教師に
バプテスマを受ける準備ができたと伝えました。
(証人になる ナドール姉妹 20004月より)

福音を語るとき、その教えは
話す人の心に御霊の証とともに染み込みます。
聞く人よりも語る人のほうが幸いを受けるようです。

日曜学校の教師がこう言うのを
聞いたことはありませんか。
「このクラスでもっとも祝福を受けたのは、
 きっとわたしです」

ノアは百年の間、人々に福音を伝えたそうです。
彼の家族以外、誰も耳を傾けようとしませんでした。
そこに祝福はあったのでしょうか。

イスラエルがたとえ集められなくても…神はわたしの力となる」
…だそうです。

「悪人には平安がない」1ニーファイ20:22

心に偽りのあるとき、平安はあるでしょうか。
苛立ちや怒りのあるとき、
不平不満のあるとき、
誰かを赦せないときはどうでしょう。

悪人だなんて言うつもりはありません。
そんなことを言われたら、わたしは悪人です。

どうすれば平安を取り戻せるでしょうか。
知っている中で最もよい方法は
祈ることだと思います。

平安のないとき、祈りたくなります。
十四歳だったジョセフも
そうだったのではないでしょうか。