末日聖徒の日曜学校

今年はモルモン書から学んでいます。

フェイスブックに統一します。

短い期間でしたが、
これまで見に来てくださった皆さん、
ありがとうございました。

「末日聖徒の日曜学校」は
フェイスブックの方に統一することにしました。
公開グループですので、よろしければ
見に来ていただければ幸いです。

(8) 末日聖徒の日曜学校 | Facebook

「心は…肉のために苦悩し…霊は…罪のために嘆く」2ニーファイ4:17

福音の知る前はそのことに気づいていませんでした。
いえ、正しくは
「それが普通で、誰でもそんなもの」
と思っていました。

教会の人々に出会ったとき、
とても驚きました。
これまでに出会った来た人々とは
違っていたからです。

彼らは‟肉のための苦悩と罪のための嘆き”から
脱しようとしていました。
簡単ではなくても、
そのために努力している彼らに光を感じました。

彼らのようになりたいと思いました。
そして今、そのために生きています。

「聖文について心に深く考え」2ニーファイ4:15

聖文を読み、
心に留まった言葉について考えます。
思いついたことについて祈ります。

そこで与えられた思いについて考えます。
また祈ります。

それを繰り返すとき、
思いは次第に深まって行きます。
深く考える”とは
そういうことではないのでしょうか。

御霊と語り合う時間になります。

「心に感じるままに…主の御霊に従って」2ニーファイ4:12

神権の祝福をしているとき、
ひとつの言葉が心に浮かびました。
「そんなこと言っていいの?」
そんなことを思いながら、
そのままに伝えました。

祝福を終えた後、彼女はその言葉に
思い当たることがあると話してくれました。

忘れることのできない経験です。

「もしあなたがたが呪われるならば…その責任が両親の頭に帰するように」2ニーファイ4:6

そうであるなら、
子どもが祝福を受けるなら両親にその報いが
もたらされるということなのでしょうか。

確かにそうですね。
子どもたちが喜ぶとき、一緒に喜びます。
彼らが苦しむとき、一緒に苦しみます。

「一緒に」
それは祝福かもしれません。

家族と一緒に、
愛する人と一緒に、
主と一緒に…

「人が存在するのは喜びを得るためである」2ニーファイ2:25

宣教師は祈り方を教えました。
「祈るとき、天のお父さまに呼びかけます。
 次に感謝します。」

祈る度に感謝することを探しました。
「食べ物と健康に感謝します」
そんな言葉を何回、何万回繰り返したでしょうか。

あるとき、ふと思いました。
「食べ物のない人、健康でない人もある」
少しの感謝が生まれました。

福音の喜び、その最たるものは
‟感謝できる心”かもしれません。

「すべての事物には反対のものがなければならない」2ニーファイ2:11

教会を知ったとき、
教会員の家庭に生まれた人たちを
羨ましく思ったものです。
彼らのような環境に生まれたなら、
人生は大きく違っていたでしょうね。
「なぜ自分は福音を知らない家庭に
 生まれたのだろうか」
考えずにいられませんでした。

教会員の家庭に生まれた友人が言いました。
「普通の家庭で育った人が羨ましい」
理由を尋ねないではいられませんでした。
彼は言いました。
「彼らのような改宗を経験したことがない」

福音を知らずに育ったおかげで
喜べるものもあるのかもしれません。
わたしにとっては祝福となりました。